冨永の石彫を観ていると、みずみずしさと充足との緊張関係といったものを考えさせられる。一見したところ、ここには難しいものは何もないように見える。みずみずしさはあくまでも物質としての石の自然なニュアンスに発見されているものなのだし、充足は明快なフォルムとして無理なく石に担われているものなのだから。けれどもこのみずみずしさと充足は、作品の中でひとつに構成されるとき、そこにある緊張のさざ波を走らせるように感じられる。もし石のみずみずしさがフォルムの充足に完全に回収されるとしたら、作品はより自然でアルカイックな「存在」に近づくのかもしれないが、結局のところそこにはまさにみずみずしさそのものが欠落することになるだろう。みずみずしさと充足はおたがいに他を損なうことなくきわだたせながら、いくつかの、ほとんど目に見えない、生の動きを発散する。それが「ゆっくりと起きあがる卵」の方角であり、孵化や翼が目指す生成の音楽であると言えば言い過ぎだろうか。                                                        西村龍一
                             

                    

 空間のしずくが、長い時間をかけて結晶化したような、まるい、あるいはしずくの柱のようなものがかっちりとギャラリー空間に表れたような、そんなイメージが冨永幸彦さんの彫刻にあります。

大理石や御影石を削り取って作られた作品に代表されるように、ギリシャ時代から彫刻とはそういう作家が作品を場所に構築するような方法論でつくられるものです。しかし冨永さんはそのような方法論に準じているのは間違いないのですが、場所に構築するというよりは場所と空間が柱や卵などの存在を欲して、空気中に含まれる石灰分を結晶化させてしまったような印象が湧いてくるのです。空気と断絶しながらも空気から生まれたような、冨永さんの手わざと精神の問題だけれども、手わざと精神の問題がするりと水蒸気とともに立ちのぼってしまうような。2次元の写真では分かりにくいと思います。

実際に作品のあるたたずまいにふれて感じていただければ、これこそ幸いです。

In Tokyo, Feb.2000 池松みのり